余暇を憎む
私と同居人は、時間をおだやかに気怠く浪費しながら、これから時間を気持ちよく浪費し続けていくための良い手段を探している。
同居人によると、時間を浪費するための最も良い手段は、貯金をたくさん溜めて、そのお金を使って余暇を確保することだと言う。
恐らく貯金を使って、働いたぶんの時間を買い戻すのだろう。
ただ、買い戻した時間を貶めることのないような人間ならば、そもそも時間を買い戻すなどとは言わないはずだ。
時間自体には、なんの意味もない。
自分が最も楽しめることを知らない人間が余暇を求めても、余暇はさみしく持て余されて、自分を苛め続ける枷になる。
それは香ばしく焼いた肉や魚をどれだけでも注文できるレストランに、空気だけを食べて生きる人間を放り込んで、好きなものを食べろと命令しているようなものだ。
強い消化器官を持つ人間だけが、余暇を咀嚼して吞み下すことができる。
残念ながら、今のままでは同居人も私も、買い戻した余暇に潰されてしまうだろう。
でも余暇をうまく使う術など、そもそも必要ない。時間はそこらじゅうに満ちている。
私は今まで、醜いものを正しく判別し、嫌悪しながら強く拒絶できる人間に憧れた。
その正しい尺度が持つ自分勝手さを眩しく感じた。醜さに対する拒絶心の苛烈さや、ありものの形をそのままになぞることに何より執着する言葉に脳の底を打たれた。
そのような言葉は、暗くねばつく欲求を繰り返し少しずつ異なる形で反芻してあぶり出したことによって、露出した生傷のように見えた。